モンゴル民族について(伝統スポーツから考える)

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 ブフ(モンゴル相撲)、競馬、弓射はモンゴル民族のもっとも古い伝統競技である。チンギス・ハーン以前からしばしば実践的・軍事的鍛錬として利用されてきただけではなく、モンゴル民族の精神世界と深くかかわり、日常的遊戯としても根強い文化的伝統を持っている。今日では、モンゴル各地のオボー祭りやナーダムを主な伝承母体として、モンゴル人のアイデンティティの確認および強化に重要な役割を果たしている。とくにブフは各種の全国的スポーツ大会の競技種目としてスポーツ化され、オリンピック種目入りを目指す動きもあるほどである。しかし、近年では、それは一つの特殊なスポーツとしてしか見られず、そのほかの多くの伝統ゲームはすでに喪失され、人々の記憶から消えうせてしまっていることも事実である。


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 内モンゴルにおける近代体育・スポーツ制度の形成は、1947年の内モンゴル自治区成立に始まる。1948年のガンジュール廟ナーダムの復活が内モンゴル自治区の第一回ナーダムとなった。1950年に内モンゴル体育協会が発足し、1953年から各盟旗にも体育協会が設けられた。それによって、内モンゴルにおける体育・スポーツ制度が基本的に形成され、バスケット・ボール、サッカーなどをはじめとする近代スポーツが普及しはじめた。

 1957年5月1日に内モンゴル自治区設立10周年記念ナーダムが開催され、その後においてかの文化大革命時代を除き、自治区設立5周年または10周年記念の節目ごとに開催されるようになった。そうした定期的な行事は体育・スポーツの普及に積極的な役割を果たしたことはいうまでもなかろう。しかし、それは同時に中国共産党の民族政策の成功例としての政治的意味を強く持っていたことは否定できない。

 内モンゴルにおける伝統スポーツの中で、ブフの発展がもっと顕著である。1978年にシリンゴル盟アバガ旗体育委員会の主導でブフの改革が始まり、競技規則の明文化や競技形式の多様化が試みられた。そしてブフが自治区の正式競技種目となり、1988年から数回にわたって民間体育・スポーツ機関の主催で全国大会および国際大会が開催された。それに先んじて、それまでの「蒙古式??」という他称を固有表現の「ブフ」(漢語表記は搏克)に変えた。それは主体性および自文化の外部への提示として大きな意義を持つのである。1984年から女子ブフが発足し、いまでは各地のナーダムで欠かせない種目となっている。ブフの技術は多くの格闘スポーツの基盤にあるので、内モンゴル人選手は格闘スポーツにおいて全国で絶対的優勢を誇っている。柔道、レスリングなどで世界的に劣勢にあった中国において、世界大会のメダルや入賞はモンゴル人選手によってもたらされる場合が多い。


 騎馬民族として誇り高きモンゴル人にとって、騎馬スポーツはブフと並ぶ得意な分野である。アジア最大の競馬場として知られている、「内モンゴル競馬場」は1959年に竣工している。同年9月1日、第一回全国運動会(国体に相当)の競馬、アーチェリーとポロなどの種目が行われた。それは中華人民共和国設立10周年祝賀記念と内モンゴルの第一回スポーツ大会も兼ねたものである。1951年に当時のウランフ(鳥蘭夫)軍最高司令官の提案で、チャハル盟軍区がシリンゴル盟宝昌鎮で「ポロ(馬球)訓練センター」が発足し、翌年の「八一人民解放軍」運動会と上記の第一回全国運動会でメダルを独占し、中国スポーツの一つの空白を埋めたとして高く評価された。

 残念ながら、伝統的三種競技の一つである、弓射はほぼ喪失しており、アーチェリーによる実演が時々行われる程度である。一方、モンゴル将棋シャタルは一部地域では民間のシャタル協会が発足するなど今後の普及が期待される。

 その他の伝統スポーツには、西部地域のアルシャ盟の騎射(流鏑馬)と東北半農牧畜地域におけるボル(布魯、先端部分が曲がった木製の遊具で、主として遠投を競う民俗ゲーム)などが上げられよう。前者は当該地域の大規模な行事などで断続的に行われているが、後者は、内モンゴル自治区少数民族伝統スポーツ大会の競技種目になっている。両者ともその起源は13世紀までさかのぼる騎馬遊牧民の伝統ある民俗ゲームであるが、現在では喪失の危機に面している。貴重な無形文化財として保存が急務となっているが、いまだに政府や行政側の具体的保護政策は見られないのがきわめて残念である。


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 このように見てみると、現代内モンゴルにおけるモンゴル民族の伝統スポーツは中国体育・スポーツの発展に大きく貢献し、とりわけ格闘および馬スポーツの歴史を作ったと言えよう。しかし、その輝かしい業績の陰では、むしろ失われつつある伝統スポーツのほうが多いことを忘れてはならない。その最大の原因は、圧倒的な漢族文化の影響と同化問題であるだけではなく、行政面において、各種伝統スポーツを統括する自治区レベルの個別組織や学校教育化の欠如と、行政一辺倒の指導体制にあると考えられる。

 いかなる民族の伝統文化ないし民俗ゲームには個人を超え、世代を超えて伝承されていく母体が必要であろう。つまり、文化伝承の保証が不可欠である。無論われわれ自身には、日本の芸道で言うところの「自得精神」が不可欠だが、伝統生業が崩れたり、伝え手と受け手が減少したりしている現代社会においては、伝統スポーツに対する行政の保護政策はもちろん、学校教育に取り入れることが伝承保証の得策だと考えられる。しかし、内モンゴルのどこを見ても無形文化財の保護政策はなく、学校教育のカリキュラムには拙稿で取り上げた伝統スポーツはどれも入っていない。『民族区域自治法』によれば、「民族自治地方における文化教育」とは、現代国民文化と民族の伝統文化の両方を含むものではあるが、教育は正規の学校教育を主とし、文盲を無くすための補助手段とする各種国民教育を指しているという。これが、伝統文化ないし伝統スポーツの教育化が実現しない法的根拠になっているように思われる。となれば、表面的に活発な伝統スポーツは、実質的には形骸化していく可能性が大きい。言語や慣習もしかりである。かりに伝統スポーツの継承を、身体と精神性を含む意味で捉えるならば、その喪失は一体何を意味するだろうか。

 内モンゴルにおける伝統スポーツの現状から見て、われわれは、無意識のうちに「参与する傍観者」になっているのではなかろうか。

文責:バー・ボルドー/学術博士